今年の正月は家でのんびりし過ぎてしまい、殆ど歩かなかったので、思い切って丸一日のコースである八社めぐりに行った。
このコースは約15kmあり、回り方によっては20km弱にもなるハードなコースなので朝から夕方まで覚悟していく必要がある。はとバスも運行されているし、日にちを分けていくのもよいかもしれない。
まず、都営大江戸線に乗り、月島駅で降りる。この辺は再開発で超高層のマンションが立ち並んでいる。佃大橋の通りをもんじゃ横町の反対側を隅田川に向かって歩く。すると堀がある公園が見えるので、そちらのほうへ行き、佃小橋を渡った右側が住吉神社である。
佃島は徳川家康が江戸入府の時に摂津国佃の漁夫33人に干潟を与え、これを埋め立ててできた島で住吉神社もそのころ大阪から分霊されてきた。
海上安全、渡航安全の守護神なので、交通安全の祈念をする。
この境内には龍神社が祀られていた。今年が辰年なので迷わずこちらにも御参りする。
鳥居にかかる額は陶製で珍しいと思ったら、明治15年に寄進されたものとのこと。
また、水盤舎の欄干には昔の佃島周辺が浮き張りされているので一見の価値がある。
墨田川のほとりへ戻ると、そこに佃島、石川島公園ができていた。そこに佃の渡しの跡を記念して灯台ができている。下が公衆トイレであるのは現代的ということか。
次は、日本橋・小網神社。ここへは公園を通って中央大橋を渡る。
橋上から隅田川を見る(遠くに小さく、スカイツリーが望める)。
隅田川を渡り、この通りを新大橋通りまで行くのだが、この辺りは運河(堀)が沢山あったところ。幕府の御船手組の屋敷(幕府の水軍)の話や河村瑞賢(治水・海運の功労者)の話が橋の袂の案内板に絵入りで書かれている。また、なぜか堀部安兵衛の碑が建てられていた。吉良邸討ち入りの密会が隅田川の舟上で行われたことがその謂れか・・・。
新大橋通りに出て、茅場橋を渡った二つ目の信号を左に入って少し歩き、右に折れると次の小網神社、ここで強運厄除けの願をかける。この社殿は昭和に入って造営されたものだが戦禍を免れ、日本橋地区で唯一の木造檜つくりの神社建築だそうだ。また境内には井戸があり、そこで金銭などを清め財布に収めると財運を授かるとのことから東京銭洗い弁天とも呼ばれている。
新大橋通りに戻って、先に進むと大きな交差点の角が水天宮である。
ここは安産・子授けの神として有名で戌の日には写真の境内を一回りと更に2~300mくらいの行列ができ、境内に入るだけでも30分~1時間待つほどである。
先日も娘の安産を祈念したばかりである。
ところで水天宮はもともと福岡県久留米市において、鎮守様として祀られていたのを、 江戸時代、第九代藩主頼徳公の時、三田は赤羽根の有馬藩上屋敷に分祀され、屋敷の中にあったものを開放して、庶民の信仰を集めた。明治5(1871)年になってから、現在の地に移ったとのこと。
ここまで来たところで月島の駅を降りてから、すでに1時間半、人形町で昼食をとる。
その後、甘酒横町を通り、明治座の前に出てまっすぐに蔵前を目指す。
途中、靖国通りに出る少し手前に薬研掘通り、薬研掘不動尊の案内があったので寄り道をする。
薬研掘というと七味唐辛子でその本店が浅草にあるのでてっきり浅草周辺と思っていたのだが、もともとはこの両国橋の袂であったことを初めて知った。
また、江戸時代この辺りは医者が多く住んでいたところで、順天堂発祥の地でもあったとのこと。佐倉の佐藤舜海が江戸にいるときここに住んでいたことから碑が建てられたと思われる。この不動尊が、正月のブラタモリでも放送されたが、このときは放送前で案内チラシが貼ってあった。
靖国通りを突っ切り、江戸通りといわれている浅草橋の駅前を通過する。
この辺りは、人形やおもちゃ問屋が並んでいる。正月の羽子板も並べてあった。
蔵前橋の手前でこのあたりだけれど…と思い右側を覗くと神社があった。他の神社は八社めぐりの青いのぼりが立てられているのだが、この神社にはそれがないのと参拝客が少ないこともあり、疑心暗鬼でお参りし、正面の鳥居の前に立ち、第六天榊神社(健康長寿)であることを確認した。
ここには官立の図書館、浅草文庫があったが明治14年5月に閉館、その後は東京工業大学の前身、東京職工学校(後に東京高等工業学校)の敷地となっていた。震災後に東京高等工業学校は目黒区に移転している。無くなった父がそのような話をしていたことを思い出した。
江戸通りに戻り、ひたすら浅草を目指して歩き続ける。
やっと浅草についた。昼食後1.5時間以上経過している。吾妻橋のところでスカイツリーを見上げる。先ほど中央大橋から撮った写真とは違い、ここでははっきりと大きくそびえたっている。歩いてきた距離を感じられる。
ここから更に北に向かって30分ほど、言問橋を過ぎ、墨田公園にできている平成中村座の前を過ぎていくと、今戸神社がある。
縁結びの神ということと浅草七福神めぐりもダブっているせいか、若い女性の参拝客が結構いて、おみくじなど行列になっていた。
ところで、商売繁盛や招福への願いをこめて、よく店先や玄関などに飾られている招き猫ですが、ここが発祥の地ということだ。いわゆる招き猫の登場は江戸時代で、一方、人形としての招き猫はここ今戸の地で十六世紀から焼かれていた今戸焼が始まりといわれているとのこと。(今戸焼とは瀬戸物のこと、下町にある食べ物で、タイ焼きのような餡の入ったものではない)
またここは幕末の人気者、新撰組の沖田総司の終焉の場所でもありその碑も建てられている。江戸に引き上げた時、沖田総司の肺の病はかなり進んでおり、和泉橋の松本良順の医学所で治療を受けていたが、薩長軍の江戸入りに際して、総司を含む患者たちは浅草今戸八幡に収容されたとのこと。松本良順は今戸八幡に寓居して患者の治療にあたり、総司は松本良順宅で療養し、終焉を迎えたとのこと。
ここの参拝でスタートの住吉神社から距離的に一番離れたところまできたことになる。
これからは大周りだが、少し戻るようなイメージで次のお参り先に向かう。
神社の裏手の門を出て、学校の校庭に沿うようにして、道なりに向かう。すぐに山谷掘りにぶつかるが突っ切っていく。
しばらく行くと、浅草警察署がありその前に神社がある。ここは浅草のお富士さんと呼ばれ、富士さん信仰のシンボルで、毎年5月、6月の末日には植木市が立つ。子供のころは良く縁日に連れて行ってもらった記憶があるし、現在の我が家の玄関前の山茶花も新築時にこの縁日で買ったものだ。2メートルほどの丘の上、そんなちょっとした高さのところを富士さんに見立てたということ。
次は鷲神社である。警察署の前をずっと歩いて、10~15分行くと国際通りという広い通りに出る。ここを右に曲がってしばらくすると鷲神社である。毎年11月の酉の日に縁日が開かれ、縁起ものの熊手があたり一面に並べられ(建てかけられ?)威勢よく売られる姿は今も変わらない。
もうお分かりだと思うが、商売繁盛の神である。私は金運をお願いした。
(11月酉の市の時の様子)
この神社の前の信号を渡り、そのまままっすぐに入谷に向かうのが、次の小野照崎神社である。この距離もおおよそ徒歩15分くらいである。
地下鉄日比谷線の入谷駅を過ぎ、しばらくすると八社巡りののぼりが立てられている。
ちなみにこの辺は寺社が多く、すぐ前には下谷七福神ののぼりが立てられている神社もあり少し紛らわしいので注意が必要。
この小野照崎神社は学問芸能の神であり、また池波正太郎の時代小説にはよく出てくるところでもある。
次はいよいよ八社目になる。少し戻り昭和通りを上野方面に歩き、入谷の交差点を清澄通りに入っていく。
しばらく行くと、前回紹介した。合羽橋通りにぶつかる。これを斜めに、上野学園のほうに入っていく。そして上野駅前の道、浅草通りを渡ったところが下谷神社である。
家内安全の神で、ここの神輿は祭礼の時には上野駅に飾られるので、見た人もいるのではと思う。
寛政十年(1798)この境内で噺の会が初めて江戸で有料で催され、これが江戸の寄席の発祥の地ということで石碑が建てられているし、その横にはこれも上野と縁の深かった正岡子規の俳句の石碑が並んでいる。
これで八社めぐりが最後で、すでに5時近く、正直かなり疲れた。上野へ行ってガード下で一杯ひっかけて帰る。
全く逆に行けば、月島でもんじゃを食べて帰るのもよいし。コースを見直すと昼や夜の食事をするところが沢山ある。
歩いて一気に回るより、途中で交通機関を使うのが現代的な廻り方だと思う。