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南町奉行所

南町奉行所

皆さん、江戸時代、遠山の金さんなどでおなじみの奉行所の場所、知っていますか?
東京に住んでいる人なら、殆どの人が行ったことのある場所です。
北町奉行所と南町奉行所があったのですが、北は上野?南は品川?なんて思っている人が多いのでは。
南町奉行所 イトーピア

ここは有楽町の駅前、東京交通会館、イトーピアの間にある駅前広場。
南町奉行所 地下入口

地下に入るエスカレータのところが跡地でそのイトーピア側にちゃんとそれを表す銘版がある。
南町奉行所 案内板
南町奉行所 案内板

人通りがかなり多い場所にもかかわらず、気が付いている人はほとんどいない。
近くに行ったらぜひの覗いてみてはいかが・・・

因みに北町奉行所は東京駅八重洲北口、今、工事中で跡を示すものを見つけることは出来ない。
北町奉行所 東京駅
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東京下町八社参り

今年の正月は家でのんびりし過ぎてしまい、殆ど歩かなかったので、思い切って丸一日のコースである八社めぐりに行った。
このコースは約15kmあり、回り方によっては20km弱にもなるハードなコースなので朝から夕方まで覚悟していく必要がある。はとバスも運行されているし、日にちを分けていくのもよいかもしれない。
まず、都営大江戸線に乗り、月島駅で降りる。この辺は再開発で超高層のマンションが立ち並んでいる。佃大橋の通りをもんじゃ横町の反対側を隅田川に向かって歩く。すると堀がある公園が見えるので、そちらのほうへ行き、佃小橋を渡った右側が住吉神社である。
佃島は徳川家康が江戸入府の時に摂津国佃の漁夫33人に干潟を与え、これを埋め立ててできた島で住吉神社もそのころ大阪から分霊されてきた。
海上安全、渡航安全の守護神なので、交通安全の祈念をする。
今戸神社

この境内には龍神社が祀られていた。今年が辰年なので迷わずこちらにも御参りする。
今戸龍神社

鳥居にかかる額は陶製で珍しいと思ったら、明治15年に寄進されたものとのこと。
また、水盤舎の欄干には昔の佃島周辺が浮き張りされているので一見の価値がある。
今戸神社(鳥居)
今戸神社(水舎)

墨田川のほとりへ戻ると、そこに佃島、石川島公園ができていた。そこに佃の渡しの跡を記念して灯台ができている。下が公衆トイレであるのは現代的ということか。
佃島 灯台

次は、日本橋・小網神社。ここへは公園を通って中央大橋を渡る。
橋上から隅田川を見る(遠くに小さく、スカイツリーが望める)。

中央大橋からスカイツリー


隅田川を渡り、この通りを新大橋通りまで行くのだが、この辺りは運河(堀)が沢山あったところ。幕府の御船手組の屋敷(幕府の水軍)の話や河村瑞賢(治水・海運の功労者)の話が橋の袂の案内板に絵入りで書かれている。また、なぜか堀部安兵衛の碑が建てられていた。吉良邸討ち入りの密会が隅田川の舟上で行われたことがその謂れか・・・。
堀部の碑

新大橋通りに出て、茅場橋を渡った二つ目の信号を左に入って少し歩き、右に折れると次の小網神社、ここで強運厄除けの願をかける。この社殿は昭和に入って造営されたものだが戦禍を免れ、日本橋地区で唯一の木造檜つくりの神社建築だそうだ。また境内には井戸があり、そこで金銭などを清め財布に収めると財運を授かるとのことから東京銭洗い弁天とも呼ばれている。
小網神社

新大橋通りに戻って、先に進むと大きな交差点の角が水天宮である。
ここは安産・子授けの神として有名で戌の日には写真の境内を一回りと更に2~300mくらいの行列ができ、境内に入るだけでも30分~1時間待つほどである。
先日も娘の安産を祈念したばかりである。
ところで水天宮はもともと福岡県久留米市において、鎮守様として祀られていたのを、 江戸時代、第九代藩主頼徳公の時、三田は赤羽根の有馬藩上屋敷に分祀され、屋敷の中にあったものを開放して、庶民の信仰を集めた。明治5(1871)年になってから、現在の地に移ったとのこと。
水天宮

ここまで来たところで月島の駅を降りてから、すでに1時間半、人形町で昼食をとる。
その後、甘酒横町を通り、明治座の前に出てまっすぐに蔵前を目指す。
途中、靖国通りに出る少し手前に薬研掘通り、薬研掘不動尊の案内があったので寄り道をする。
薬研掘というと七味唐辛子でその本店が浅草にあるのでてっきり浅草周辺と思っていたのだが、もともとはこの両国橋の袂であったことを初めて知った。
また、江戸時代この辺りは医者が多く住んでいたところで、順天堂発祥の地でもあったとのこと。佐倉の佐藤舜海が江戸にいるときここに住んでいたことから碑が建てられたと思われる。この不動尊が、正月のブラタモリでも放送されたが、このときは放送前で案内チラシが貼ってあった。
薬研掘不動尊
薬研掘(順天堂)


靖国通りを突っ切り、江戸通りといわれている浅草橋の駅前を通過する。
この辺りは、人形やおもちゃ問屋が並んでいる。正月の羽子板も並べてあった。
蔵前橋の手前でこのあたりだけれど…と思い右側を覗くと神社があった。他の神社は八社めぐりの青いのぼりが立てられているのだが、この神社にはそれがないのと参拝客が少ないこともあり、疑心暗鬼でお参りし、正面の鳥居の前に立ち、第六天榊神社(健康長寿)であることを確認した。
榊神社鳥居

ここには官立の図書館、浅草文庫があったが明治14年5月に閉館、その後は東京工業大学の前身、東京職工学校(後に東京高等工業学校)の敷地となっていた。震災後に東京高等工業学校は目黒区に移転している。無くなった父がそのような話をしていたことを思い出した。
榊神社(浅草文庫)

江戸通りに戻り、ひたすら浅草を目指して歩き続ける。
やっと浅草についた。昼食後1.5時間以上経過している。吾妻橋のところでスカイツリーを見上げる。先ほど中央大橋から撮った写真とは違い、ここでははっきりと大きくそびえたっている。歩いてきた距離を感じられる。
吾妻橋(スカイツリー)

ここから更に北に向かって30分ほど、言問橋を過ぎ、墨田公園にできている平成中村座の前を過ぎていくと、今戸神社がある。
縁結びの神ということと浅草七福神めぐりもダブっているせいか、若い女性の参拝客が結構いて、おみくじなど行列になっていた。
今戸神社

ところで、商売繁盛や招福への願いをこめて、よく店先や玄関などに飾られている招き猫ですが、ここが発祥の地ということだ。いわゆる招き猫の登場は江戸時代で、一方、人形としての招き猫はここ今戸の地で十六世紀から焼かれていた今戸焼が始まりといわれているとのこと。(今戸焼とは瀬戸物のこと、下町にある食べ物で、タイ焼きのような餡の入ったものではない)
今戸神社(まねきねこ)

またここは幕末の人気者、新撰組の沖田総司の終焉の場所でもありその碑も建てられている。江戸に引き上げた時、沖田総司の肺の病はかなり進んでおり、和泉橋の松本良順の医学所で治療を受けていたが、薩長軍の江戸入りに際して、総司を含む患者たちは浅草今戸八幡に収容されたとのこと。松本良順は今戸八幡に寓居して患者の治療にあたり、総司は松本良順宅で療養し、終焉を迎えたとのこと。
今戸神社(沖田総司終焉の地碑)

ここの参拝でスタートの住吉神社から距離的に一番離れたところまできたことになる。
これからは大周りだが、少し戻るようなイメージで次のお参り先に向かう。
神社の裏手の門を出て、学校の校庭に沿うようにして、道なりに向かう。すぐに山谷掘りにぶつかるが突っ切っていく。
しばらく行くと、浅草警察署がありその前に神社がある。ここは浅草のお富士さんと呼ばれ、富士さん信仰のシンボルで、毎年5月、6月の末日には植木市が立つ。子供のころは良く縁日に連れて行ってもらった記憶があるし、現在の我が家の玄関前の山茶花も新築時にこの縁日で買ったものだ。2メートルほどの丘の上、そんなちょっとした高さのところを富士さんに見立てたということ。
浅草浅間神社(お富士さん)

次は鷲神社である。警察署の前をずっと歩いて、10~15分行くと国際通りという広い通りに出る。ここを右に曲がってしばらくすると鷲神社である。毎年11月の酉の日に縁日が開かれ、縁起ものの熊手があたり一面に並べられ(建てかけられ?)威勢よく売られる姿は今も変わらない。
もうお分かりだと思うが、商売繁盛の神である。私は金運をお願いした。
鷲神社
酉の市(11月酉の市の時の様子)

この神社の前の信号を渡り、そのまままっすぐに入谷に向かうのが、次の小野照崎神社である。この距離もおおよそ徒歩15分くらいである。
地下鉄日比谷線の入谷駅を過ぎ、しばらくすると八社巡りののぼりが立てられている。
ちなみにこの辺は寺社が多く、すぐ前には下谷七福神ののぼりが立てられている神社もあり少し紛らわしいので注意が必要。
この小野照崎神社は学問芸能の神であり、また池波正太郎の時代小説にはよく出てくるところでもある。
小野照崎神社

次はいよいよ八社目になる。少し戻り昭和通りを上野方面に歩き、入谷の交差点を清澄通りに入っていく。
しばらく行くと、前回紹介した。合羽橋通りにぶつかる。これを斜めに、上野学園のほうに入っていく。そして上野駅前の道、浅草通りを渡ったところが下谷神社である。
家内安全の神で、ここの神輿は祭礼の時には上野駅に飾られるので、見た人もいるのではと思う。
下谷神社

寛政十年(1798)この境内で噺の会が初めて江戸で有料で催され、これが江戸の寄席の発祥の地ということで石碑が建てられているし、その横にはこれも上野と縁の深かった正岡子規の俳句の石碑が並んでいる。
下谷神社(寄席の碑)

これで八社めぐりが最後で、すでに5時近く、正直かなり疲れた。上野へ行ってガード下で一杯ひっかけて帰る。
全く逆に行けば、月島でもんじゃを食べて帰るのもよいし。コースを見直すと昼や夜の食事をするところが沢山ある。
歩いて一気に回るより、途中で交通機関を使うのが現代的な廻り方だと思う。

かっぱ(合羽)橋 上野から浅草へ

江戸・明治の名残で合羽橋?と思う人も多いと思うが、上野から浅草までの散歩コースとして尋ねてみた。
上野駅の正面にまっすぐの道が浅草通り。この道は一直線に浅草駒形橋まで行ける浅草通りで、向かって右側は仏具屋街。仏壇を並べた店が軒を並べている光景は見慣れない人には異様に映るかもしれない。
今回はここを通らず、駅前の昭和通りを渡ってすぐのその通りを千住方面に向かう。
一つ目の信号をこえ、次の角を右にへ曲がると電車の踏切になる。江戸明治には関係ないが、特徴的なので、寄ってみた。下記の写真でおかしなところわかりますか。
銀座線車庫1
銀座線車庫1
わかりましたか?
JRは昭和通りの向こうだし、上野駅は新宿のように私鉄もないのに踏切…、それにこの踏切、線路電車のほうに遮断機が付いている。
実はこの踏切は地下鉄銀座線の車庫に入る踏切で、電車のほうにも遮断機が付いている。一昔前まで銀座線、丸の内の地下鉄が駅に入る前、瞬間車内照明が消えていたのを覚えている人いますか?この遮断機の原因はこれと同じ理由です。
銀座線・丸ノ内線は昔の地下鉄工事の時、掘る深さを極力浅くするため、普通なら線路の上にある架線をなくしてしまった。その分、下のレールが3本あり(通常のレールの外側にもう一本)線路を歩いていて、触れると感電する可能性があるため線路内に入らないよう遮断機があるというわけです。
これを過ぎて、台東保健所を左に曲がり、ごく最近高層ビルに建て替えたばかりの上野学園の前を通ると、三叉路(五差路)の交差点がかっぱ橋本通りの入り口だ。道路の正面に下町の新しいシンボル、スカイツリーが見える。
合羽橋と折からのスカイツリー
この道を行き、松が谷2丁目の交差点を右に曲がったところに「源空寺」がある。
ここの門には江戸初期の町奴で侠客の元祖といわれた幡隋院長兵衛(池波正太郎著「男の系譜」「侠客」)、江戸中期に根岸で生まれた水墨山水画の大家である谷文晁の墓石がある。
ここには更に、日本の実測地図を最初に作った伊能忠敬の墓もある。忠敬は千葉県九十九里町に生まれ酒、醤油の醸造、金貸し業を営み、商人としてはかなり才覚があり、伊能家を再興したのだが、50歳の時にあっさりと子供に家督を譲り、江戸へ出て幕府の天文方、高橋至時に師事して、測量・天文観測や測量の勉強をしたとのこと。56歳で測量のたびに出ていくことになるのだが、定年後に一念発起してウォーキングを始めた私としては負けられない気持ちにさせられる。師匠とともに葬ってくれとのことで墓石が高橋至時と並んである。
伊能忠敬墓所
この源空寺あたりは明暦の大火後、幕府の政策により、寺院が多く移ってきて、当時は新寺町と云ったそうで今も多くの寺院が残っている。
先ほどの松が谷の信号を反対側に行くと秋葉神社がある。
ここはJR秋葉原の名前の由来になった神社で、明治の初めに東京に火事が多発したことを憂慮した明治天皇が、宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷して東京府火災鎮護の神社として現在の秋葉原の地に創建したのが始まりだとのこと。
当時秋葉神社の周辺には火除のための広大な空き地があり、この辺りを「秋葉原(あきばはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼んだらしい。
秋葉神社
合羽橋通りに戻り、スカイツリーに向かって歩くと、左側に曹源寺(かっぱ寺)がある。ここも明暦の大火の後、移転してきた寺のようだが、かっぱ寺の伝承は以下の通りのようだ。
『文化年間に当地の住人で雨合羽商の合羽川太郎という人物がいた。この付近は水はけの悪い低地で雨が降ると洪水となり、人々は困窮していた。そのため、川太郎が私財を投じて排水のための掘割の工事に取り掛かった。このときかって川太郎に助けられた隅田川の河童が工事を手伝い、完成をした。子の河童を目撃すると商売が繁盛した。』とのこと。
境内に入っていくとかわいいかっぱの石像が迎えてくれる。
かっぱ寺
この並びに門構えに大きな石を使った、海禅寺という寺がある。ここには幕末に安政の大獄で2番目に捕えられてしまった、梅田雲浜の墓がある。
曹源寺
これを過ぎると、いよいよ合羽橋道具街通りの中央に出てくる。
左に行っても、右に行っても店舗開設に必要なもの(食器、看板、制服、店舗飾り等など)がすべてそろう様々な店が並んでいる。最近は素人の単品買いもほとんどの店で大丈夫なのでウインドウショッピングにも最適なところではある。
素人、特に外人に受けるのは食品サンプルのお店かもしれない。キーホルダーなどにして売っている。
道具街風景
この交差点のすぐわきに、かっぱ川太郎の碑と金色の肖像が平成になって建てられている。
かっぱ像(金色)
合羽橋道具街の案内はこのブログとはテーマが違うので、割愛。
ただ、歩くだけでも面白いことは請負う。日曜日は店が閉まっているところが多いので注意。
この後、南のほうへ歩き、菊谷橋の交差点を左に曲がると、そこに葛飾北斎の『冨嶽三十六景』に東都浅草本願寺として描かれている、東本願寺がある。
東本願寺正門
浅草寺(観音様)があまりに有名なので、浅草の本願寺は意外に知られていないのかもしれない。人影はまばらではあるが、境内はそれなりに大きな寺院である。
ここも戦争で本堂は焼けてしまっていて、江戸初期の銅鐘がビルの上にある鐘つき堂になってしまっているのが、残念である
東本願寺

ここから先は、浅草を散策するもよし、観音様まで行くのもよしとなる。

都心の行楽地 愛宕山

江戸時代の風光明媚な観光地、愛宕山登山???にチャレンジ。
JR新橋駅の烏森口を降りて、虎ノ門方面に向かう。
喧騒な繁華街を向けて日比谷通りにでて左に曲がっていく。周りはもちろんビルばかりだが、どの道を見ても坂道が見えず、山がありそうな様子は全くない。
芝郵便局のところで右を見ると、先のほうにトンネルが見えてきた。ここだなということで、この角を曲がる。
東京慈恵会医大とその病院が両側に展開されている中を通って行くと、桜田通りの先に愛宕山トンネルがあった。
愛宕山にトンネルが掘られていることはこの辺を初めて歩く私にはまったく知らなかった。
このトンネルの脇に愛宕山に上る≪エスカレーター≫がある。
トンネル

トンネル下から見ると上るのはこのエスカレータきりないようなので、乗ることにした。
全方向ガラス張りで、しかも一気に6階くらいの高さの山頂?へ運んでくれる。

江戸時代はこの山から江戸湾が一望でき、絶景の眺めということであったが、残念ながら今はビルばかりでほとんど周りの景色は期待できない。
しかしながら、ビルの谷間の自然を満喫することはできる。

昔は東京湾に面した(望める)江戸の山は南から品川の御殿山(お台場)、そして高輪の台地がありそしてこの愛宕山、ここから北に霞が関の丘、
そして江戸城、その北は神田駿河台、湯島と続き、一番北が上野の山になるのだろうか。
山といっても20mくらいのもので、この愛宕山は26mの高さで23区内で最高峰だそうだ。
山の上には、その高さを活用して建設された、放送局の名残でNHK放送博物館がある。
NHK

もうひとつここには愛宕神社がある。
神社

この神社には「出世の石段」と呼ばれている、男坂がある。
階段
上から見てもかなり急で、よほど体調が良くないとここを上る気はしないような急な坂である。徳川秀忠の三回忌の増上寺参拝の帰り、徳川家光が山上にある梅が咲いているのを見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣(曲垣平九郎)が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ている。男坂を上った所にはその手織りの梅の木もあるが、ほとんど枯れかけているし、また何代めかのものでとてもご利益がある梅には思えないものではある。
梅
そんないわれで、桜田門外の変の水戸浪士の結集場所にもなっているし、現代の人も出世を祈願して詣でるようだが、私はしなかったため、出世も見送られたのかもしれないととくだらないことを考えてしまった。

山頂には湧水があり、その水が池を作っていた。
池

山の上から男坂を見てもかなり急で、まして馬に乗ってこの坂を上り下りしたのか、信じがたい思いであった。
裏に、女坂がありこれをだらだらと下りて愛宕山登山を終えた。

この後散歩コースは、東京タワー、増上寺に行くのもよいし、桜田門方面に行くのも、また神谷町のほうへの散歩コースもある。

墨提を歩くその2

この『向島百花園』は文化・文政期(1804年~1830年)につくられた庭園で、開園当初は梅が主体で、当時有名だった亀戸の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたところです。当初は360本の梅が植えられていたそうですが、その後有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしたそうです。
5月には藤棚、夏にはヘビウリ・ヒョウタン・カボチャが結実、9月には萩のトンネルなど時期により見所があるのと、芭蕉をはじめとした文人たちの句碑、石柱がいたるところに立てられています。残念ながら私には文才が無いことと、時期があまり良くないので中には入らずに次に行きました。
百花園入り口

百花園玄関

表門の道を川に向かっていくと、直ぐに白髭神社です。
この神社は天暦5年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白髭大明神の御分霊をここに祀ったと、社伝の記録は伝えてます。
当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生まれたとあります。というわけで、江戸時代の有名な料亭八百善の主人、八百屋善四郎と吉原の松葉屋半左衛門が、狛犬を奉納したのだと思われます。
八百善はこの隅田川の対岸に吉原へ続く、山谷掘りの河口の近くにあった。

白髭神社

ここからは首都高速の出入り口などがあり、ちょっと突きあたりの三叉路まで殺風景な道になる。この三叉路を左に行くと向島の花町街、今でも向島芸者いて置き屋もある。右側は言問団子の店だ。この店は江戸末期の創業でちょうどこの辺りが桜の名所でもあるため『花より団子』となったのかもしれない。ここにも文人がたくさん訪れているようだ。
言問団子

この店の前に墨堤植桜之碑があり、解説板によると墨堤の桜は当初は先程歩いた隅田川神社を中心に植えられていたものを1800年くらいから、地元の有志らによって植桜され江戸末期には吾妻橋辺りまでの並木になったとあります。墨堤の桜も随分と時間がかかったのと近代にはいると堤防や道路などで何回も危機を乗り越えてきているのだろうと思わずには居られませんでした。
墨提植桜乃碑

この碑のすぐそばに有名な長命寺のさくらもちやです。こちらは創業280年というからかなりな老舗というわけです。時期になると長蛇の列でとても並んで買う気になりませんが、さすがに今はそれほどでもなく買うことができます。ここの桜餅は塩漬けの葉を2~3枚使っているので甘さと塩っけのバランスが絶妙です。
長命寺さくらもち


この裏手にお寺の長命寺がある。
本来はこの長命寺の表門の前で桜餅を売っていたそうですが、現代ではこちらの方が主役になってしまっています。
長命寺は、家光の放鷹の途中で、軽い病気(微恙)になってここで休憩したので、僧孝海が加持のうえ境内の般若水で薬をすすめると、効験あって治癒した。家光は喜んでその井戸水を長命水と名付けて家康の画像を付して毎年供養料を給したことにより名付けられたといわれている。
長命寺

この隣にちょっと変わった門のお寺があった。
弘福禅寺という寺のようである。
長命寺~三囲神社?

土手に戻り少し下ると川に向かって鳥居が建っている。三囲(みめぐり)神社である。
三囲神社 鳥居

この名前の由来は、神社を建てる時、土の中から壷が出てきたので中を開けてみると、老翁の神像が入っていた。その時白狐が現れ像の周りを三度回ったことによるとされている。ここは雨乞いとしても名を残している。それは元禄六年(1693)の夏、「夕立や田をみめぐりの神ならば」の句を詠むとあくる日雨が降ったという逸話によるものだそうだ。
今回、特に調べてなかったので見逃してしまっていたが、ここには珍しい三柱鳥居というものがあるとのこと。三柱鳥居は三本の柱で、3つの鳥居を組み合わせたものいうようだ。
ここには三井家の守護神ということでゆかりのあるものが多く存在するし、三越本店にも分祀されているとのこと。
三囲神社境内

土手を行き言問橋をくぐって信号を渡ると、公園がある。その先にあるのが牛島神社である。牛午前社ともいう。天武天皇の時代(701~764)、この辺りは隅田川の流れが今と違っていて浅瀬で広大な河原状態になっていたようで両国から向島が牛島といわれ国営牧場として設置されていたことによるらしい。「江戸名所図会」では、牛島の出崎に位置するところからこの名前が付いたとも記されている。ここには撫牛の風習がある。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというもので、牛島神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられている。これは江戸時代から知られていたそうだ。そうそう、本殿前には狛犬ではなくて狛牛であるのも特記すべき事です。
牛島神社(牛)

この神社は隅田公園のなかにあるため、鳥居を出たところは公園になっている。
もっとも隅田公園は川に沿って吾妻橋の辺りから白髭橋の手前辺りまでいままで歩いてきたところを含む、大きな公園ではある。ここから吾妻橋に近いところまでは水戸徳川家の下屋敷で、維新後も水戸徳川家当主が関東大震災で家が全壊するまでここに住んでいたとのこと。その時代には明治天皇の行幸もあったそうで石碑が刻まれている。
ここまで来るといま話題のスカイツリーも本当に間近に見ることができる。昨年暮れの状態。
水戸藩邸跡公園からのスカイツリー

スカイツリーが川面に映ることで話題になっている北十間川を渡ると、墨田区役所になる。
その敷地に勝海舟の銅像が建っている。江戸城の無血開城をとりきめた彼は江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、7歳まで育った縁でここにたてられたそうである。
勝海舟

ビールジョッキ、とその泡で有名なアサヒビール本社のまえを通り、吾妻橋のひとつ下流の駒形橋を渡る。
この橋のたもとに駒形堂がある。ここは浅草寺の御本尊が約1400年前に隅田川から発見された場所で、はじめは川に向けられて建てられたものが、何度かの再建で、現在の南向きになったようである。『江戸名所記』に「浅草川を上下する時、御堂が白駒が駈けるように見えるので “駒かけ堂”といわれ、訛って駒形堂になったと書かれているようだ。
昔、船で浅草寺参拝に訪れた人はこの辺りで上陸し、駒形堂をお参りして、観音様に向かったとのこと。江戸時代には広重の錦絵に描かれたり、吉原の遊女2代目高尾が「君は今、駒形あたり時鳥(ほととぎす)」と仙台候の伊達綱宗を慕って詠んだ名句がのこっている名所です。このお堂のご本尊さまは馬頭観音さまで、この地を行き交う人々を守ることから道側(南向き)になったのだといわれている。
駒形堂

ここからは雷門に戻って浅草から帰宅する。
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